新説! 東京ラーメン

第3回 戦後の東京ラーメン


Takashi WatanabeTakashi Watanabe  / Nov 3, 2024

きっと、多くの人がイメージする「昔ながらの東京ラーメン」という像は、この戦後のラーメンのことを指しているはずである。味の懐かしさとともに、戦後復興の歩みと併せ、ゼロから作り上げて、どんどんと発展していった身近な存在、同士にも似た親近感を覚えるのかもしれない。そんな戦後のラーメンを振り返って、整理してみよう。

東京の食文化は、本を正せば、江戸時代に迎えた庶民の文化が基礎になっている。うなぎ、すし、蕎麦、天ぷら、いずれも発祥は東京ではないが、食べ方を含め食文化として定着したのが江戸時代だと言われている。こうした庶民の文化が花開いた背景には、300年近く戦争のない平和な時代があったことが無関係ではないだろう。

一方、東京のラーメンは関東大震災で一度挫折し、太平洋戦争によって時代が完全に分断されてしまった。戦後の東京は焼け野原と化し、食材は乏しく、配給制度が始まり、日本人が営業許可を得るのにも時間を要した。ラーメンに限らず、すべての飲食店が一度リセットされたのである。このような状況下で、ラーメンは戦前の「ハレの日」の食事から、庶民の胃袋を支える安価で満足感のある大衆食へと変貌を遂げた。そして最終的には、大衆食の代表として見事に復活を果たすことになる。

戦後の東京ラーメンはこんな背景があるわけだが、整理するためにこんなキーワードで括ってみた。「個人店」、「闇市」、そして「満腹」。

戦前が中華料理店からの流れ「オーナーと料理人(たち)」という成り立ちなら、戦後は、生活のために必死に「個人が店主であり料理人」として立ち上がる図式が多く見られる。店舗を持つことも叶わなければ、屋台営業という選択肢が力を発揮する。屋台自体は戦前から出ているが、ラーメン屋台として大きく発展するのは戦後だ。

その戦後、屋台から身を起こし、足立区梅田交差点近くに1号店を構えたのが[珍來]だ。[珍來]はその後、製麺所を作り、東京だけではなく、千葉、埼玉、茨城へと広がる大きなグループとして成長するが、胃袋を満たす戦後の社会インフラとして役割を果たしていく。

現存していた[珍來]二号店。 
まだ小さい店舗だが、この後大型の大衆店へと成長していく 

では戦後のラーメンの味の特徴はどう捉えるべきだろうか。ここで戦後の「闇市」が大きな役割を果たす。サッカリン(糖類)、小麦などの国からの配給物も満足に行き届かない時代、食料を手に入れるためには、暗黙の了解となっていた闇市を利用する以外に手がなかった。現在の主要駅(新宿、池袋等)の多くには闇市が開かれたが、そのひとつ荻窪駅にも現在のタウンセブンがある場所に闇市があった。その中から、荻窪には多くの名店が生まれることになる。[春木屋]、[丸長]、[丸信]、[丸福]、[漢珍亭]といった店たちだ。荻窪は1980年頃に「荻窪ラーメン」という東京ご当地ラーメンとして盛り上がるが、これこそ東京ラーメン!と思う人も多いのではないだろうか。

荻窪には多くの個性派が誕生したが、東京全体で考えると、魚介出汁の(あまり)入らないシンプルなスープこそ戦後すぐを象徴する東京ラーメンであるとしたい。荻窪でいえば、[漢珍亭]、[丸福]や[三益](※閉店)といったお店だ。そして、その後(または並行して)、[丸長]や[春木屋]といった個性派たちが花開き、時代を築いていくという流れである。

荻窪北口の[丸福]。
かつてバラックが立ち並ぶエリアにいまだに営業している

シンプルなスープ。これをもう少し深堀りしていこう。鶏ガラや豚ガラ、そして、余った野菜などを入れたスープである。つまり、すべて捨てても良いようなものだ。戦後、十分に材料が手に入らなかった時代、これらの材料でラーメンを作る他なかった。しかし、これが大逆転を生む。肉が多少ついた骨、手足や首。これをじっくり炊くと旨味が溢れてくる。野菜の芯もそうだ。この最低限の材料を醤油という旨味の塊で味付けしまとめる。食料が自由に手に入らない時代には十分なごちそうになる。安価で満たされるための究極の形が戦後のラーメンだったのだ。

銀座は戦後ラーメンの激戦エリア。
[三吉]のラーメンはいまだに300

戦後ラーメンの味を底上げしたものは、さらに二つある。一つは「うま味調味料」だ。戦前に開発されたこの調味料は、次第に安価になり、戦後広く普及した。これにより、ラーメンはより経済的に、そしてさらに美味しく作られるようになった。

もうひとつはチャーシュー。浅草[來々軒]のチャーシューは当時、広東料理由来の吊るし焼きであった。だが、チャーシューはその後煮豚に変わっていき、その多くはスープとともに煮て、煮たものを醤油に漬けるようになる。その際スープには肉の旨味が移り、同じように醤油にも奥行きが生まれ、この漬けた醤油がラーメンのタレとなった。そして、肉はラーメンの上に乗るのである。なんという効率の良い料理なんだろう。

ちなみに余談だが、この煮豚は大日本帝国陸軍の炊事版のメニューにあった煮ハムと似たレシピだそうである。戦後のラーメン店は復員軍人が始めたものが多く、煮豚が広まったのではないかという説もあるようだ。

こうして、限られたリソースで作ったラーメンが一転してごちそうへと変貌し、広く支持を得るようになった。しかし、もうひとつ忘れてはならない重要な要素がある。それは、栄養を摂取するための食事であり、同時に空腹を満たすための食事でもあったということだ。つまり、当時のラーメンを食べる最大の目的は、何よりも「満腹感」を得ることだったのである。

ラーメンは戦後、インパクトのある味を手軽に食べられるものとして普及するが、やがて、その手軽さで胃を思い切り満たしたいという欲求へと繋がっていく。丼はどんどん大きくなり、麺量は増え、栄養価のあるゆで卵が乗ったりして、その欲求へ応えていく。ラーメン二郎もこの流れの中で生まれている。

新宿にある[満来]、[ほりうち]は、よりこの部分を象徴したラーメンだ。また、神保町付近で広がった半チャンラーメンは半チャーハンとラーメンの組み合わせはちょうどよい満腹を演出したことが大ヒットした要因である。元祖半チャンラーメンの[さぶちゃん]は閉店してしまったが、そのマインドは現在下神明にある[のスた]に受け継がれた。

[ほりうち]のラーメン。
一杯でお腹いっぱいになるコンセプトは戦後東京ラーメンの王道であった

[のスた]のラーメン。
戦後の東京ラーメンを再構築した一杯。郷愁と最先端が共存している

このように戦前と戦後の東京ラーメンはいったん断ち切れてしまいそうになった歴史を辛うじて紡いだことで再興したわけだが、そのわずかな糸を紡いだツールが屋台である。3章ではその屋台から発展した東京ラーメンを考えてみる。

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