風来坊な食いしん坊
002 ひとつのトマト
晴天の中、畑で玄米おむすびを頬張ることから始まる日。野良仕事中に畑で食べるおむすびは手軽で抜群に美味い。腹が減っては戦が出来ぬ、お腹も心も満たされたところで今日も畑での作業がはじまる——。
こんにちは! 富岡誠太です!
初回は東京での生活から尾道市因島への旅立ちを記事にしました。第二回目である今回は因島で暮らしを共にする農家さん”みなと組”との日々で感じていることを内容にしたいと思います。
筆者(左)とみなと組の加藤靖崇さん。みなと組についてはnoteもご覧ください
因島に来てから2ヶ月が経った。東京にいた頃には想像し難い生活を送っている。日差しは容赦なく、外でじっと立っているだけでも滝のように汗が流れてくる。暑さが少し落ち着く夕方頃には、待ってました!と言わんばかりの蚊たちが周囲に現れてくる。おかげさまで肌の色は健康的なこんがり色、虫刺されも身体中のあちこちに。東京にいた頃に親しくしてもらっていた友人に島で会った時には「前より”野生味”出てきたね。」なんて言われたりもした。それは髭を剃っていなかったからなのか、はたまた髪を何ヶ月も切っていないからなのか、自分でもはっきりとはわからない。
”野生”。因島での生活で食べ物、食材との距離感が格段に縮まった。釣った魚や街の方々にいただくイノシシや野菜。そして今、僕が共に暮らす農家さん”みなと組”の畑で育てられた夏野菜。テーブルの上に並ぶ料理のほとんどが近場で採れたもので埋め尽くされることも数多い。恵まれた環境で暮らし、これらの豊かさを享受していると貨幣価値について考えてしまうことだってある。全ての食材から物語を感じる食事ほど幸せなことはない。
大浜町の方にいただいたチヌ(クロダイ)と畑で採れた野菜とハーブのアクアパッツァ
この町で生き物が食べ物に変わる瞬間(その変わり目を決めているのは自分だけれども)を以前よりも近くで感じている。僕が釣った魚も、釣り上げる10秒前は広大な海で泳いでいた。因島にはクマやシカはいないが車で山道を走らせればイノシシの親子に遭遇することだってある。さっき食べたトマトも今朝までは畑になっていて、土と繋がっていた。
家のすぐ前の海岸でキス釣りをし、その日のうちに刺身と天ぷら、塩焼きにしていただいた
僕は食べることと運動、あと寝ることが大好きだ!
人間を含む動物すべてが生きるために必要なことを削ぎ落としたときに残るものはそれらだと思っているから(笑)。
だから、生きるためにちゃんと食べる。
それは僕が食した魚やイノシシも同じこと。僕が食した魚は海の中では他の何かを食べている。イノシシも山中を駆け巡り、そして掘り起こし、生きるために何かを食べている。山から降りて畑にだってやってくる。飲食店や個人のお客様に出荷するために大切に育てている野菜もイノシシに食べられたり、畑のあらゆる畝を掘り起こされた日もあった。暑い中、腰を曲げながら何時間もかけて苗の植え付けをし、翌朝に荒らされた畑の姿を目の当たりにしたときは胸が痛くなった。きっと農家さんは僕の何倍も。
誰の食べ物って区切ることができるのは人間だけかもしれなくて、イノシシや他の動物にその考えはないのかもしれない。僕もイノシシも魚もトマトもそうやって他の何かを自分の一部にして生きている。食べることは一つの旅の過程であるように思う。
農家さんが自然環境と相対して考え、手をかけ、ようやくできた野菜。天候や虫だけでなく、多くの障壁を乗り越えてたくましく育った野菜。その物語を因島で今、全身で感じられている。ひとつのトマトを食べることに当たり前などなくて、トマトが成形されて赤く色付くまでに数多くのドラマが存在する。食卓に並ぶそのトマトには土地の個性、生産者の想いや苦労、そして笑顔、いろんなものが詰まっている。
みなと組さんの畑で採れたミニトマト
農家さんは畑と同等に土地を守っている。みなと組さんと共に暮らしていて感じることがある。「農は暮らしと山(自然)との接点」。これは以前お会いした方が言っていた。作物を育てるだけでなく、暮らしを整える仕事も農家さんは意識することなくやっている。すごく大切なことなのだけど、価値を目に見えて測れるものではないから気付かれにくい。
僕はもうすぐ25の年を迎えるが、24年間生きてきて、当たり前とついつい感じてしまっていたところに今の生活をしていて自然と深く目を向けることができるようになってきた。
日々の食事に何を想うか、そこに暮らしを整えるきっかけがあるような気がする。食べるまでのこと、そしてその先のこと。そんな大切なことを共に住むふたりと、因島大浜町のみなさんとの暮らしの中で気付かされている。
残された因島生活を存分に楽しみたいと思う。
忘れられない夏だ!
因島白滝山頂上からの景色
1999年、埼玉県出身。大学在学中に旅や生産者巡りをはじめる。同時に代々木上原カフェ[BOLT]の立ち上げに参画。その後、マネージャーを務めたのち、現在は東京を離れ、訪れたことのある土地の生産者の元で生活を送っている。