旅とインド料理
001 完璧なチャパティを焼く
カレーのルーツを探るため、インドやその周辺国に十数回渡航してきた。現在は大学院でインドに関する「料理人類学」を研究しながらインド料理を作り続けている。
食べ物を知ることはまさに人間を知ることに他ならず、食べ物を通して社会や文化が見えてくる。特にインドは食と社会の結びつきがとんでもなく根深い。この連載では旅を通じて知ったインド料理の魅力と、実際に家庭で作って楽しめるレシピを紹介していきたい。
ということでまずはチャパティから。
インド家庭料理基本の“き”
インドにはいろいろなパンがある。中でもおそらく日本で一番有名なのではないかと思われるのはナンだ。「インドではナンは食べない」と聞いたことがあるかもしれないが、たしかに、ナンを焼くにはタンドール窯が必要でありインドの家庭では食べられていない。外食や結婚式のときなどたまに食べられるが、精製小麦や発酵したパンはあまり消化にもよくないとされている。
北インドの家庭ではナンではなく「チャパティ」が広く食べられている。チャパティは、全粒粉(アタ)と水、塩だけで作られる無発酵の薄焼きパンで、そのシンプルさが故に、作る人の技術や心の状態が如実に反映される。チャパティは「禅」かもしれない。
「チャパティが上手に焼けないとお嫁に行けない」という言葉があるほど、チャパティはインド家庭料理の基本中の基本だ。私が北インドでホームステイしていたとき、毎日の食事で必ず出されていたのがこのチャパティだった。生地を伸ばし、タワと呼ばれる鉄板で焼く作業はインドの主婦たちにとって日常的な行為であり、その手際の良さは驚くべきものだった。
うまく焼けると蒸気で一気に風船状に膨らみ、甘く香ばしく素朴でおいしい。凄腕の主婦が作ったものはもっちりしており、硬すぎず柔らかすぎず、絶妙なのである。すこし時間が経って冷めてもしっとりしている。
そんなチャパティの修行とリサーチをするため、小麦の生産が盛んな北西インド・パンジャーブ州へ飛んだときのことだ。
聖者たちのチャパティ
パンジャーブにはシーク教徒の総本山であるハルマンディルサーヒブという黄金に輝く寺院がある。シーク教徒とは、「インド人」と聞けば一昔前ならほとんどの日本人が想像したであろう、ターバンを巻いた人々だ。
この寺院ではインド中・世界中から集まる巡礼者のためにランガルという無料の食事が24時間365日提供され続けてきた。『聖者たちの食卓』というドキュメンタリー映画はこの寺院が舞台だ。野菜を切り続ける人、大きな鍋で煮られる豆をかき混ぜる人、チャパティを伸ばし続ける人などが解説も音楽もなく淡々と映されていた。
巨大なフードホールでは国籍も宗教も異なる人々数千人が同時に食事をすることもあり、食数は毎日10万食に及ぶ。シーク教は宗教・カースト・国籍などに関係なく全ての人々が平等であるという教えがあり、その実践がランガルなのだ。この営みは500年続いてきたという。インドのスケールの大きさに目眩がしそうになる。
席に座るとまず皿が渡され、料理がその上にベルトコンベア形式で配られる。素朴な味で、体調が悪くても食べられそうだ。ありがたくいただくと、チャパティはまだ温かく、素朴でしっかりした味だった。あとで知ったのだが機械焼きと手焼きが混ざっており、このときに食べたのは機械焼きの方だったように思う。
チャパティ、ダール(豆のカレー)、キチュリ(おかゆ)、サブジ(野菜のおかず)、ダヒ(ヨーグルト)というシンプルな構成
食べたらすぐに自分で食器を下げる。また新たな人たちがきて次の食事が提供される。こうやって延々と営みが続いていくのだ。
食べ終わった後はマダムたちに混じって実際にチャパティを焼くボランティアに参加した。イギリスから導入されたチャパティ全自動焼成マシーン(時速20,000チャパティ)も数台置いてありオートメーション化が進んでいるのだが、並行して手作りでもチャパティが作られている。
自分が来ても何にひとつおかしな顔をせず仲間に加えてくれた。外国人ボランティアも意外と多く参加しているのだという。生地を受け取り、円形に伸ばし、ただ焼いていく。2時間ほど無心で作業を続けると次第に自分のリズムを掴み、安定して生産できるようになった。
このとき、世界にはチャパティと自分しかなかった。
「チャパティを作る」というシンプルな行為は、まさに禅の修行のような精神的充足感を与える。作業休憩のときに飲んだチャイは、染み渡るように美味しかった。
チャパティのレシピ
チャパティは意外と難しいが、いくつかのコツを押さえれば誰でも美味しく作ることができる。マダムに教わったレシピを以下に書いてみる。
材料(4枚分)
・全粒粉(アタ) 200g
・水 180cc
・塩 4g
・強力粉(打ち粉用) 適量
・仕上げに塗るためのギー 適量
・生地の準備
全粒粉に水を少しずつ入れながら、10分ほど全力でこねる。
こねてから塩をいれ、追加で数分こねる。
ラップをかけて30分ほど休ませる。休ませる間にグルテンが形成され、生地が柔らかく伸びやすくなる。水分量は少しベタつくくらい多めにする。
・生地を伸ばす
生地を20g程度の小さなボールに分け、手で丸める。
打ち粉を多めに振りながら、麺棒で均等な厚さ(約2~3mm)に伸ばす。まずディスク状に手で整形してから伸ばすとやりやすい。生地の厚さが均一でないと、焼いた時に膨らまないのでここは丁寧に。
・焼く
鉄板(タワ)や鉄のフライパンを使い、中火で温める。テフロン加工は空焼きすると有害物質が発生する上、温度があまり上がらないので避ける。
伸ばした生地を置いたら濡れた布やペーパーで軽く押さえながら回し焼きする。
表面に小さな気泡が出て乾いてきたら裏返し、さらに数秒焼く。強めの火力で短時間で焼くイメージ。
うまく作れていたらここで膨らむが、直火で軽く炙ってもいい。この工程は「フルカ」と呼ばれるもので、水蒸気を一気に出してふっくらと火を通すテクニック。火加減を調整し、焦げないように注意。
・ギーを塗る
焼きあがったチャパティは仕上げにギーやバターを塗るとよい。
自らと向き合うためのチャパティ
『聖者たちの食卓』ハルマンディルサーヒブの食事ランガルでは、一切お金が介在していなかった。小麦粉も寄付で届いた原料を自分たちで加工して製粉している。実は食べることは本来シンプルなことで、材料を用意して、調理して、食べるだけ。
何かを見失っていると思ったら忙しい生活の中でふと立ち止まり、自分と向き合う時間を持つために、たまにはチャパティを焼いてみるのもいいのではないだろうか。
- Researcher of South Asian Food Anthropology
カレー哲学 / Curry Philosopher
カレー哲学者/南アジアの食の人類学研究者(の卵)。「日本にインドを作る」ことを目指すインド料理グループ「東京マサラ部」首謀。カレーにまつわる同人誌『カレーZINE』、インドパンのアナログカードゲーム『ATSU ATSU!! Parotta』、『TOKYO MASALAND』など、インド料理関連のプロジェクトを手掛ける。
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