新説! 東京ラーメン
第2回 戦前の東京ラーメン
戦前の東京ラーメンの特徴を大まかに考察してみよう。キーワードは「中華料理の影響」「製麺所」「組織」の3つだ。
まず、味について考えてみよう。だが、これがいきなり難しい。なぜなら、日本初のラーメンブームを起こしたとされる[浅草來々軒](1910年~)の味が確定していないからだ。つまり、東京のラーメンどころか、日本のラーメン全体について、「スープには○○と○○といった材料を使い、麺は○○」という明確な定義がないままスタートしてしまったのだ。
しかし、この曖昧さがかえって地域性や多様性を生み、大いに発展する要因となったとも言える。こんな企画を立てておきながら矛盾するようだが、ラーメンは厳密な定義づけよりも、ゆるやかな整理程度にして楽しむほうが、その魅力を最大限に引き出せるものだ。
では、戦前の東京ラーメンをゆるやかに整理をし、特徴付けてみよう。
さらにそれを戦後と比較しやすい形でまとめると
・油は少なく
・魚介スープはほぼなく
・量は多くなく
・麺は自家生産
・点心は餃子ではなく焼売
・オーナーがいて、料理人が料理を作る
・2階に宴会もできるスペースがあるような大箱の店舗も
戦前ラーメンの特徴が詰まっていた横山町大勝軒のラーメン
丼も小さい (※現在閉店)
この特徴だけを見ると、非常に上品な印象を与えるが、実際にそうだったのだろう。現代と違い、輸入され日式化された中華料理店とラーメン店の間に明確な区分はなく、グラデーションが存在したと考えるのが自然だ。つまり、戦前の東京ラーメンは「中華料理の延長線上にあって、味のつながりを感じられるもの」ということになる。
さて、[來々軒]について。
戦争を挟み、店名がラーメンの代名詞ともなった[来々軒]だが、震災、戦争を挟み、八重洲、神田と店を移し、1976年に店を閉めている。そんな中、[上野来々軒](尾崎家の親類が独立)の料理長をしていた傅興雷という人物が後に浅草本店の料理長となり、その後1933年独立したのが[祐天寺 来々軒](当時は大森)。その孫にあたる3代目の長江さんが独立して開いたのが学芸大学にある[泰雅]である。[祐天寺 来々軒]も[泰雅]もラーメンは鶏豚のシンプルなスープ。ただ、それが当時の味のままかと言われると難しい。
[祐天寺 来々軒]外観とラーメン。
右下は[泰雅]のラーメン
浅草時代に従事していたお店というのはそう多くはない。岐阜県の[丸デブ]は前述の戦前の東京ラーメンに近い味わいを出していながら、地域性も帯びている。千葉県の[進来軒]は八重洲時代の弟子で現役だが、戦後は材料の入手も含めて、戦前とは状況が大きく違うだろう。
來々軒出身のお店のラーメン。
順に岐阜[丸デブ]、千葉[進来軒]、福島[トクちゃんラーメン]
もうひとつのキーワード「製麺所」。
東京のラーメンブームは現在と比較しても想像を絶するもので、正月ともなると2,500人~3,000人もの来客があったとされ、すでに手打ち麺では追いつかない[來々軒]は機械打ちへとシフトする。製麺機は明治時代に生まれたが、当初は店舗向けの小型ものではなく、工場用が主である。そのため製麺所が多く誕生した。その中から製麺部門だけではなく、飲食店事業を広げ、戦後へと続く勢力となった店がある。
来集軒製麺所→来集軒(浅草)
児玉製麺所(浅草)→生駒軒
いずれも東京で店舗を大きく広げ、大衆食ラーメンの発展に貢献した。
[来集軒]は現在浅草にある店舗を誰もが思い出すが、1928年(昭和3年)誕生の総本店は2階もあり、大箱で料理人も多数在籍した。製麺所は更にさかのぼること1910年(明治43年)。つまり、[來々軒]と同じ年。当時いかにラーメン店、中華麺の需要が高まったかを思わせる。[来集軒]の手打ち麺風の独特な力強い麺は後に生まれたのではなく、元々が手打ち麺であったラーメンの歴史を丁寧になぞっていると言える。[来集軒]は戦後、一部は埼玉県加須市へと移り、後に東京でも復活した。いまだ自家製麺の加須市来集軒を巡ってみるのも戦前の東京を知る上で面白いと思う。
[浅草来集軒]のラーメンと、加須市久下店のメニューに掲載されているヒストリー
[生駒軒]は、初代・児玉彦治氏が[児玉製麺所]を立ち上げた後、1917年(大正6年)麻布に[生駒軒]の一号店を開業した。その後、戦後にかけて100店舗以上に膨れ上がった[生駒軒]だが、ラーメンの文脈で語られることが少なく、今でいうところの街中華という捉え方をしている人も多い。ただ、正統的な東京ラーメンの系譜である。現存するお店では最古の梶原店、現在の中心的な役割の人形町店、ロケーション的に貴重な浅草店、そして、異端の街中華として進化し続ける緑町生駒などがオススメである。
[生駒軒]のラーメン。
順に、浅草店、人形町店、梶原店
そして、最後のキーワード「組織」。
戦後の「個人」店とは非対称を為すように、店舗は大きく、オーナーが料理人を多数雇い運営する店が多かったと推測できる。東京ラーメンというと小ぢんまりした店舗と個人事業主の店主、そして、家族経営、安くて身近な大衆食といった像を思い浮かべがちだが、それは戦後の世界。戦前は、もっとスケールの大きな中華料理店から派生したハレの日の外食だったのかもしれない。
[浅草來々軒]、[来集軒]、そして1912年(諸説有り)に誕生する[人形町大勝軒]も、油問屋を営んでいた渡辺半之助が当時流行していた[來々軒]のスタイルに目をつけラーメン店を開こうとしたところに始まる。味、自家製麺、テーブルは大理石、窓ガラスはステンドグラス、2階は宴会可能なスペース、オーナーと料理人の関係。すべてにおいて戦前を代表するお店だった[人形町大勝軒]。ただ、非常に残念なのは本家である人形町、日本橋(三越前)、馬喰横山など主要なお店はすべて現在閉店しており、一番早くに独立した新川も経営者が変わってしまい、当時の味が食べることができない。唯一浅草橋にある[大勝軒]が、当時の味を守っており、すべての料理に戦前の東京を感じることができる。
[人形町大勝軒]に関する資料。
本店は品のある造りだった
[大勝軒]の外観。
順に日本橋本町店、横山町店、人形町本店、昭和3年当時の本店(※現在すべて閉店)
順に、[浅草橋大勝軒]のラーメン、焼売、
[人形町大勝軒]の味を守っていた[日本橋よし町]の蒸した麺、[本町大勝軒]のラーメン
余談だが、戦前のラーメンに添えるサイドメニューは焼売である。それは広東料理由来であるから当然のことだ(横浜の中華街もそうである、と考えるとより納得してもらえるだろう)。[來々軒]も[来集軒]も[人形町大勝軒]もすべて焼売が売りになっていた。これも戦後の餃子との対比として面白いだろうし、また、食べ歩きの中で焼売を掲げるお店は戦前誕生したお店ではないか?と考えてみるのも楽しいだろう。
ただ、この大東京ラーメンブームは戦火によって状況が一変してしまう。お店の存続は当然、ラーメン自体の概念を変えなければ文化が途絶えてしまう可能性もあった。だが、東京ラーメンは東京の都市同様、様々な幸運を味方にして復興し、大きく発展するのである。
文中以外の戦前系東京ラーメンの推薦店
萬福(銀座)
戦前を代表するお店のひとつ。
築地、銀座はラーメンの密集地区だった
味の萬楽(神田)、萬楽飯店(御茶ノ水)
親族が経営する萬楽と萬楽飯店
幸軒(築地6丁目)※場外市場にある幸軒とは別。
場外市場の幸軒が有名だが、そちらは戦後開業。関係はないという。
- Ramen Archiver
渡邊 貴詞 / Takashi Watanabe
IT、DXコンサルティングを生業にする会社員ながら新旧のラーメンだけでなく外食全般を食べ歩く。note「ラーカイブ」主宰。食べ歩きの信条は「何を食べるかよりもどう食べるか」
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