『子どもたちはもう遊ばない』パレスチナの深層に迫ったドキュメンタリー映画

イラン映画の巨匠モフセン・マフマルバフ監督インタビュー


Kyoko EndoKyoko Endo  / Jan 9, 2025
カンヌなど世界で評価が高いイランの名匠モフセン・マフマルバフ監督は、政権の人権侵害にNOを言い続け、現在は国外で映画を撮り続ける信念の人。キアロスタミ監督の映画に本人役で登場するほどイラン現地での人気が高く、妻や娘の監督作品への脚本提供やプロデュースもしています。そんなマフマルバフ一家が制作した新作ドキュメンタリーが公開中。『子どもたちはもう遊ばない』は緊迫したエルサレムで融和を求める市井の人々を撮ったドキュメンタリー。監督の過去作も特集上映中です。舞台挨拶のため来日した監督にインタビューしました。

――イスラエルのガザ攻撃がものすごくショッキングで、世界の目は一斉にガザに向かいました。そういう時にあえてエルサレムの人々を撮りに行かれたことにどんなお考えがあったんでしょうか。昨日(特別上映『川との対話』上映後トーク)「祈りの場所なのに対立の場所になってしまった」と話されていましたね。

じつは以前からガザとパレスチナとイスラエルの問題について、いろいろフッテージ(一連のシーン)を撮っていたんです。107日にハマスの襲撃が始まったとき、それらをまとめて一本の映画にしようかと考えたんです。なぜなら、メディアから私たちに与えられる情報は戦争の情報で、限られたニュースしかない。なぜこういう問題が起きているのか、文化的にどういうことがあってこの70年間この問題が続いてきたのかというようなことにはメディアはタッチしません。私はそのことにはやっぱり疑問を持っていて、もし文化的な問題がなくこの二つの民族が一緒に暮らしていたら、シオニストの政府もできていなかったんじゃないか、問題は何なのか、調べてみようと思ってキャメラを回したんです。

――イスラエル軍から暴力を受けてもなおパレスチナの青年たちが融和を模索しようとしていたり、ユダヤ人のお母さんがユダヤの子どもとパレスチナの子どもを一緒に教育している場所を一生懸命探していたり、子どもが無邪気に遊んでいたりするシーンには希望も感じられました。猫と遊ぶ女の子たちが最後の方に出てきますが、偶然撮れたんでしょうか?

パレスチナとユダヤの両側のお母さんたちに話を聞きましたが、やっぱり母親の目線からものを見ると、争いは起きないと思います。お母さんたちの宗教は違うけれど、やっぱり自分の子どものことを考えているんですね。自分の子どもがいつか人を殺すとか、戦争に行くとか、想像もしたくないし、望んでもいないし、自分の子どもはほかの子どもと仲良く遊んでほしい。自分の子どもに憎しみを教えたいお母さんはいないんですよね。全体には少ないけれども、映画の中のある学校では、宗教に関係なく、子どもたちが一緒に遊んだりしています。だからやっぱり母親の目線で物を見ていれば、対立は起こっていなかったんじゃないかと思います。猫を抱いた子どもたちは偶然撮れました。この映画の90%は偶然撮られたと思ってください。何か計画して撮ったわけではなくて、例えばアリさん(アフリカ系パレスチナ人で引退後カフェで旅行案内などをしている人物)をカフェに座らせて話を聞いたのではなくて、偶然に会って話を聞きました。踊っていた女の子たちも、街角でキャメラを回していたら音楽が聴こえてきて、どこだろうと思って路地に入って行ったら子どもたちが踊りを練習していました。だからすべて自分のキャメラが回っていて匂いを感じて、匂いを感じた方に行くと、映像が撮れたという感じなんです。

猫を抱いた子どもたち

アリさん

――じゃああの迷路みたいな街の中を歩かれて偶然撮りためた映像が何年分かあったってことなんですか。

ツーリストとして観光地で撮るような映像ではなく、やはりアイデアはありました。そのアイデアとは、この映画では“対立の問題を解決する糸口を見つけられるか”ということでした。そのアイデアに合うものを録画したので、ツーリスト的なキャメラではないんです。要するに、キャメラはアイデアの目、持っている者の目になるんです。それを5年ぐらい前から撮ってきたということなんです。

――映画制作で何をどうやって伝えるか、そのどうやって伝えるかに映画プラスsomethingが必要だと言ってらっしゃったことが、とても印象的でした。『子どもたちはもう遊ばない』のsomethingを考えたとき、エルサレムの歴史、どう生きるべきかという哲学、締めくくりに詩も入ってきますよね。そうしたsomethingとか、自分の中に育んでいくアイデアっていうものは、ご自分の生き方の中で意識せず浮かんでくるものなのでしょうか。

私たちが生まれてくる時、みんな真っ白だと思っていますが、真っ白じゃないんですよ。無意識のいろんなものが赤ちゃんの頭の中にあると思います。例えば、私たちがDNAで自分のルーツを調べると、あなたは50%日本人だけど40%は中国人で、10%は韓国人と出てくるかもしれない。同じように、目の色、肌の色、生まれたところと一緒に、赤ちゃんが生まれてくるときは、無意識にいろんな所の遠い人たちの考えも入っているんですね。だから夢の中で変な所にいたりするんです。こんなところは見たことない、こういう人には会ったことない、でも夢の中に出てくるっていうのは、あれは私たちの無意識の中にいるんですね。無意識と夢についてはユングが説明していますが。私は、自分の無意識の中から何かが生まれてきているのがわかりますし、自分の体験からもアイデアは浮かんできますが、この映画の場合は、プラス政治、プラス歴史、プラス宗教的な哲学や人間的な哲学です。哲学をこの映画から外して、政治も外したら、ただのツーリストがキャメラを回したようなものになってしまいます。

――面白いですね。日本では無意識というより、前世を気にする人がいます。

同じことだと思います。赤ちゃんが生まれてくるっていうのは、突然赤ちゃんが生まれて来たんじゃなくて、何百年前、何千年前からいるんですよ。ただ赤ちゃんの形として出てきてるんです。そして死ぬと消えるわけじゃないんですよ。だから私たちは突然生まれて突然死んで消えるんじゃないんですよ。消えないんです。ただ、形を変えるだけなんですね。

だから死ぬときは、死ということが起きて自分が生きて“いる”、存在して“いる”ことを忘れてしまうだけなんです。自分が無くなるのではないんですね。脳はもうそれを私たちに教えてくれないだけなんですよ。

――ただ、やっぱりそうやって、すごい憎悪を持った前世を持っていたとしても、やっぱり人には人を許す機能があるし、憎悪が本質ではないと思うんですよね。100年前からエルサレムに暮らしている一族の一員であるユダヤ人のベンジャミンさんの話は、曽祖父が生きていたイスラエル建国前は人々の大半はパレスチナ人と共生していたということで、現在の分断は政治が意図的に国民意識を変えて行ったこともうかがえました。まさしく、当局じゃなくチャイを売る青年のような市井の人に話を聞くべきだっていうアリさんの話が効いてきます。

私たちの中には許すことばかりじゃなくて、暴力の要素もあるんですけれども、それはシチュエーションによって出てくるものです。例えば糖尿病因子はみんな持っているけれども、ある状況が整うと罹患してしまいます。アレルギーもそうじゃないですか? 

あのユダヤ教の青年のベンジャミンは“この国ができる前はみんな仲良く一緒に暮らしていた、いろんな宗教の聖地だけれども、みんなそれぞれ自分たちの神をいただいてそれぞれに祈っていて、宗教が違うことはお互い気にしていなかった。仲良く生活していた”と話しますね。何がこの平和を壊してしまったかというと、やはりシオニストのイデオロギーを持った体制ができてからなんですね。“俺たちは自分のことしか信じない。みんなもこれを信じなさい”というような考えが生まれてから、仲良く暮らしていた人たちが戦うことになってしまいました。

アリは当局ではなく普通の人たちから話を聞けと言います。もちろん私自身、そういう普通の人の話を聞こうと思っていましたが、なぜそうしようとしたかというと、多くのメディアが偉い人たちの話しか聞いていないからなんです。私はその声がほかの人には届けられない人たち、普通の人の声を録画して見せたいと思ったんです。

ベンジャミンさん

――そこでアリさんがああいう(市井の)人に話を聞くべきなんだって、例に挙げるのがチャイを売っている人っていうところが、とても示唆的だと思いました。食に関わる人って、日本の小さな喫茶店でコーヒーを出している人もそうですけど、本当にわずかな利益で日々をしのぐように暮らしています。そういうところが、ものすごくわかりやすいです。

アリが指し示したチャイの男のような人たちこそリアルな人々だと思います。例えば、私たちがキャメラを回して、何かのメダルを獲った選手を見せると、その人だけの話になりますが、街角の人に話を聞くと、その人の問題はマジョリティの問題なんですよ。動物で例えると、世の中にはたくさん蟻がいるから、蟻を撮るとその蟻の動きはすべての蟻の話になりますが、例えば鷲なんかは数が少ないから、鷲を撮るとそこに飛んでいるその鷲の話になるんです。だからマジョリティの話を聴かせるのなら、街角のある一人を描けばほかの人の気持ちや問題も見つけることができるんです。それで、メディアはそういうことはまったくしないんですよ。メディアは声が大きい人たちを見せてばかりいて、普通の人々の声は、上の人が騒ぐ声の中で聞こえなくなってしまう。だからこそ私はアート映画、芸術性が高い映画は、普通の人々の声をみんなに聞かせる義務があるんじゃないかと思うんです。

――先進国の映画なら、労働者を見たときにその人たちがどんな食事を食べているかっていうことはだいたい見当がつくんですけど、戦時下でも人間って食べなきゃ生きていけないのに、戦時下にいる人々が一体何を食べているかっていう情報は本当にまったくわかりません。監督が見聞きされたアフガニスタンやガザの人々は、何を食べて暮らしているんでしょうか。

私はアフガニスタンでの活動のほうが長く、パレスチナにはそんなに長くは滞在してないのでパレスチナのことはわかりませんが、昔バーミヤンの人たちに何を食べているのか聞いたことがあります。とても貧困を感じたからです。そうしたら彼らはポテトと答えました。ポテトは雨が無くても何もなくても獲れる。そしてポテトを食べるとお腹いっぱいになる、塩だけあればおいしいんだと。それで食後はみんなで集まっておしゃべりしながらチャイを飲む。お金があれば砂糖を入れたチャイを飲んで、お金がないと砂糖なしのチャイを飲んでいる。もっと貧しい地域に行くと、ただのナンとオニオンを食べるんです。チャイも飲むんですよ。アフガニスタンの中でも、農業だけじゃなくて、ちょっと羊を飼ったりしているとミルクも飲んだりしますし、多少肉も食べたりします。でも私はどういうものを食べているかっていうことで、人間自体が変わると思います。私の意見ですが、肉ばかり食べている人たちはより暴力的になると思います。今日インド料理を食べて思ったんですが、インド料理は香辛料が多いから口の中の満足度が高いです。口の中が満足すると、あまり食べなくて済むんですよ。我々はたくさん食べるときは口が満足してないから、どんどんどんどん胃袋に入れるんですよね。それで太ってしまうんです。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン天使の詩』で天使に「なんであなたは羽がなくなっちゃったの、なんで人間になったの?」と聞くと、彼は「コーヒーの匂いに負けた」と答える(笑)。それを思い出しておかしかったです。私たちはさっきカレーの匂いについて話していて、いまも口の中でカレーの匂いがするからお茶も飲まない(笑)。

――はい。私が中年女性だからかなと思うんですけど、人がちゃんと食べられてるかどうかっていうことがすごく心配になるんですね。監督がアフガニスタンの芸術家たち800人を1ヶ月で国外に逃さなければならなかったとき2時間しか寝てなかったっていうのを聞いて、それもすごく心配になったんですけど、人が寝てないとか食べてないって聞くと、すごく心配になるんですよ。

あなたのような若い人が自分を中年と言うなら僕はもう死んでます。いま、携帯を見てメッセージを読んでいたでしょう。(通訳中にメッセージが届いていた)アフガニスタンから逃げてタジキスタンに行った人からで、タジキスタン政府もビザなしで入ってきたアフガニスタン人を強制帰国させはじめていて、それで今メッセージが来て“タジキスタンに逃げたアフガニスタン人がどんどん捕まって次は私かもしれない、監督、なんとかしてください”という内容だったんです。こういうことに私はものすごいフラストレーションを感じます。何かできないか、でも私は何もできない。いつもこういうメッセージがくると、ものすごいストレスを感じるけれど、自分は何もできないんだ。でも、それで自分も病気になったらもっと何もできない。自分は何もできないからすごいストレスを感じるけれど、できる事に切り替えてそこにエネルギーを注ぎ込んでストレスから逃げたほうがいいと思います。今、あなたができることは何か書くことなんですよ。私は何か大きな作品を作る前は、何かすごく悩みがあった時なんです。それを作品に返すんです。あなたの作品は書くことなので、心配になったら何か書き出してください。

――はい、この記事を書きます。それで監督の映画の最後でMahmoud Darwishの詩“Think Upon Others”が使われていて「朝食を支度しながら他人を思え」という言葉が非常に印象深いです。特にイスラム教の人々には他人をもてなす文化が残っているように感じますが、今でもそうですか。

まだまだ残っていると思います。戦闘に行く人も、死ぬかもしれないのに人のために何かやろうとして行く。でも、人のためとか何かのために何かやろうと思って行くっていうのは、問題は思考力にあるんじゃないかと思う。理性的にはそこまでやらなくていいんじゃないかというようなことまでやってしまう。イスラム教だけじゃなく、すべての宗教は信者に“あなたは考えなくていいから。私が考えてあげるよ”と言いますよね。例えばISISは人を殺していると私たちは考えていますが、ISISは“自分たちは大義のために自分を差し出している”と考えています。だからいまの問題は何かのために動くとか、もてなすとかじゃなく、どのくらい自分の頭で考えているのかということです。それは、イスラム教だけじゃなくて、すべての宗教に言いたいですよ。

お母さんたちは自分の子どもにただ“もてなせ”というより“利口になりなさい”と教えてあげた方が良かったかもしれないですね。頭で物を考えていたら、自然にもてなすこともできますが、もてなすだけとか人のために動くとか、それだけを教えていたら、過激派に走る子どもたちも生まれてしまうと思います。だからいつも思うんですけれども、宗教の代わりに哲学が世の中に広まっていたら、もっと人間は平和に暮らせたんじゃないかと思うんです。

――伝統や慣習だからもてなすのではなく、自分がそうしたいかどうかっていう問題もありますよね。

文化だと思いますよ。例えば、タジキスタンはアフガニスタンより貧しいかもしれないのに、結婚式のとき、すべてのものを差し出す伝統があります。たくさんのお客さんに食べさせ、そのためにたくさんの牛を殺していたんです。あんまりそういうことをしていたから、タジキスタンはどんどん農業が弱くなってしまい、大統領がルールを決めて、結婚式には150人以上招いてはいけない、牛は一頭しか殺してはいけないことになりました。なぜなら、あんまりもてなしすぎるから。頭を使っていれば、そういうことはしないじゃないですか。ただただ、もてなすという習慣になってしまっているのか。別の考え方をしてほしい。人々が預言者の信者になるより、哲学者の弟子になった方がもっと良い世界があったかもしれないですね。哲学者が教えてくれることっていうのは、頭で考えて何がいいか、何が悪いのか。考えた上で良い方法を選んで行動することを一人一人がやっていればもっと良い世界ができたんじゃないかと思います。

――ですが、新自由主義者的な“自分だけがっちり”っていうのも嫌ですし、なかなか難しいですね。

みんなwisdom(叡智)を学べばいいんだけどね。

『子どもたちはもう遊ばない』

イスラム教・キリスト教・ユダヤ教の聖地エルサレムで、融和を求める市井の人々を撮影したドキュメンタリー。ティーンのスケーターから元PFLP戦士まで監督が偶然出会った人々の話から、現代日本社会にもつながる分断の問題が浮かび上がってくる。先祖代々100年エルサレムに暮らすユダヤ人青年の「もともとはアラブ人とユダヤ人が共存していた多様な社会があったのだ」という証言は貴重。

監督:モフセン・マフマルバフ (2024/イギリス、イスラエル、イラン/62分)配給:ノンデライコ

渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開中

※監督の次女ハナ・マフマルバフ監督が、タリバン政権下で生命の危機がある芸術家を国外に脱出させようとする監督たちを記録した『苦悩のリスト』も同時公開。こちらも非常に貴重な記録です。

ⒸMakhmalbaf Film House

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